逆に気づけたこと

卒業生作品展に出られなかった。

正直出られると思っていた作品で出られなかった。

それを聞いたとき、瞬間的に

 

「あーそっかーここでしっぺ返しきたかー、幸せすぎたもんな」

 

と思った。

それは、初めて作品が自分の手を離れて評価していただいたような気がしていて、

つまり自分が思ってるよりも、「良い」と言っていただけた作品だったからだ。

 

しかしいくつかの事情があり、結果として発表・掲出させていただくことはできなかった。

 

 

プロセスに特に理不尽があるわけでも、実際に掲出された他の人の作品に不満があるわけでもまったくないが、期待していた分、とても悔しく感じた。

大人としての自分は納得していても、自分の中の「子ども」がどうしても悲しんでしかたがなかった。

自分が思ってるよりも評価していただけていると感じていたから自然と「なんだ、やっぱりそんなでもなかったんじゃん」と思うしかなかった。それがまた悲しくなった。

 

だけどあの授業で、評価していただけた、君らしいと言っていただけたことが、僕の1年間の原動力になって、強く自信を持たせてくれたことは間違いなかった。作品が自分の想像をはるかに超えてイイねと言っていただけた経験は貴重な経験になったし、これからの心の糧になった。

 

卒展に出せなかったことの落胆から、1年間のモチベーションに気づき、大切な思考が生まれ、心の糧とすることができた。

出せなかったことがよかったとは言わないが、メンタルを前に進める材料にすることができてよかった。

 

苦しい作品づくりにおける、「心の位置」となにを想像するのかはまた考えたい。

やはり圧倒的な第三者視点、自己との対峙と「自分自身の意識からは逃れられないということ」をまた考え始めてしまった。