とりとめもないことだけど
『あなたと会えて良かった』と言われたい。その一心で生きているような気がします。
僕のしてきたことは間違っていなかったと、良い方向に進めると、肯定をしてほしくて仕方がないのです。
当たり前のことかもしれない。
早く冬になればいいのに。
「大人たる感覚」は現在の問題か、未来の問題か
あんな大人にはなりたくないな〜なんて人をときたま見かけます。逆に、あんな素敵なミドルになりたいもんだな〜なんて思うこともあります。
でもよく考えたら将来的に自分がどんな「大人」になるかってなんだ?未来における自分の大人像ってなんだ?と思い始めたわけです。
子どもは「大人」に様々な想像を膨らませています。20歳になったら、お酒を飲んだら、選挙に参加したら、、なにかがカチッと変わるものだとなぜか当たり前のように思っていました。
しかし実際は考え方も思考も、本人が自覚できないところでグラデーション的に変化していくのではないでしょうか?
これは死ぬまで変わらないのだろうなと思います。振り返ったときに初めて「意外といろいろなことを経験してしまった、“大人”になったのかもしれない」と考えるのかもしれません。大人の自覚とはその程度のもののように思います。
一方で、他の人に対して、「大人なのになんて未成熟な人なんだろう」と思うことが増えてきました。
そして大人というものにある種の幻想を抱いていたということにここ数年で気づき始めています。
僕の両親はゲームをする人ではありません。スマートフォンのゲームなども興味がありません。僕にとって「ゲームとはおじさんやおばさんがやるものではない」となるのは自然なことでした。
しかし実際は、ゲームは決して10代20代の若者のためだけのものではなく、(子ども時代をゲームをして過ごしていた)少なくとも40代、さらには50代60代と思われる人も普通にゲームをするようです。電車内でスマートフォンでゲームアプリをするおじさんもおばさんも毎日のように見かけます。いい歳してゲームをしている、ということは特別なことでもなんでもなく、本人からすればごく自然な成り行きなのです。
いい歳なのにミミズが這ったような字しか書けない人。
小さいときから字のバランスという概念を持たずに十分にコミュニケーションが取れていただけのことで、本人からみればこれも自然な成り行きの字です。
いい歳なのに狭い価値観で自分以外の気持ちを考えられない。
そのスタンスでいままでやるときはやってきたし、その振る舞いが功を奏して上手くいったことが何度もあったのだろうと思いますし、本人からすればこれもまた自然な成り行きです。
おそらくそれぞれの人がもちろん自分は大人だと考えているし、その上で、僕にとってその人たちは子どもじみているとしか思えません。
大人の感覚には、主観と客観がそれぞれ強く独立して存在しているのでしょう。
主観的な大人の感覚(主観的大人観とします)とは、前述の通り本人がもつ大人の感覚であり、これは振り返ってしかはっきりと自覚しえず、かつグラデーションのように変化していくものです。
客観的な大人の感覚(客観的大人観とします)とは、その自らの持つ大人の感覚で他人を測るということです。
人々がずっと考えている「あんな大人にはなりたくない」というのは、そのときもってる価値観(主観的大人観)で未来を測った考え(客観的大人観)にすぎません。
移りゆく感覚のなか、未来の自分がもつ感覚について考えても仕方がないように思います。
同様に、移りゆく感覚のなか、自分が過去に考えていた大人になれているかどうかなど考えても仕方がないということです。
したがって「どのような大人であるか」ということは今現在のみの問題であると思います。
僕が考える大人たるとは自分のためではなく、他人のためのものです。正しく他人の気持ちを推し測る、推し測ろうという気持ちをもち、常にそのとき自分のなりたい大人でありたいと思います。
無理せず人と付き合う
とかく新しい環境は苦手です。
人と話すことはとても好きですが、話しかけるのがとても苦手です。
(はやく話しかけてきて!)と思います。
なにか必然的に話しかける展開にならない限り話しかけることができません。
仲がいいと少しでも気になったことはどんどん喋りかけるので、早く仲良くなりたいものなのですが。
だから一度仲良くなり始めれば加速的に仲良くなれると思います。
といいつつも、
誰彼構わず仲良くなりたいわけでもなく、僕の本当に本当の気持ちとしては
“早くマジで気の合う人と仲良くなりたい”
です。
話しかけた結果あまり合わないなぁってなる場合がたまにありますけど、
あの感じ、めちゃめちゃ苦手なんですよね。
でも結局こういうのってなるようにしかならないし、あとから考えると全部縁とか運だったりとかだと思います。
つまりその時その時に、無理なく、好かれようとせず、変に飾らず振る舞っていれば、自然と気の合う人とそのうち仲良くなれてるはずだと思います。
正直、大学でもう一生の友人ができた気もしますし、友人集めがしたいわけじゃないですしね。(←ありがちな言い訳)
他人の記憶への責任
涼しくなってきて過ごしやすくなりました。すばらしい。
去年、僕はある友人から筋が通らない対応を受けました。
簡単にいうと、たくさんの迷惑、失礼な行為を僕に浴びせたのにそれに対する謝罪や反省の雰囲気がまったくないのです。
いま僕にとってその人は不愉快な存在になってしまいました。
その人とはそれ以前はよく遊んでいて思い出の記憶の端々に現れます。しかしそれすら不愉快にさせられるのです。楽しかったはずの温泉旅行もその人が居たということで写真アルバムを見返す気にもなれません。
これはもちろん僕の性格や感じ方の問題が一番大きいと思います。
もし僕も誰かの“不愉快な気持ちのスイッチ”になってしまっていたらなんて申し訳ないんだろう…と思いました。
人と付き合いをするということには、相手の記憶への責任が発生するのではないでしょうか。後々思い出したときに相手が嫌な気持ちにならないように振る舞う責任です。
もちろん完ぺきに周りの人全員を気にするということは難しいでしょう。だけど少なくとも共に活動する、手の届く範囲の人々に対しては、関わったからには、今後ずっと誠実でいなければならないように思うのです。
僕は大学生活を通してたくさんの友人と記憶を共有しました。この記憶が気分の悪いものにしないよう、僕は筋の通らないような不誠実なことはしてはならないという大きな責任と共にいきていこうと思うのです。
楽しむ上手
私立恵比寿中学の新曲?の『感情電車』を聴きました。
ミュージックビデオは7人のメンバーで箱根旅行に行くのをメンバー同士が撮りあった動画で作られています。
2月に急逝した元メンバー松野さんが亡くなる直前に家族旅行に行っていた場所が箱根だったようで、松野さんも一緒に行けるように旅行先が箱根なのかと思うとしんみりしてしまいました。
それにしてもメンバーたちが無邪気に旅行を楽しむ様子は非常に癒やされますのでオススメです。
私立恵比寿中学 『感情電車』Music Video - YouTube
転調が心地よい、明るくて楽しい、だけどどこかもの悲しさも感じられる素敵な楽曲です。
サビにある歌詞で
楽しむ上手になりたいな
という部分があります。
楽しむのが上手いってすばらしいことだよなあとしみじみ思いました。
「楽しむ」上手ということは、楽しくないような状況でも感情をコントロールして楽しむことができるということです。自然と楽しくなってしまうだけの「楽しみ」上手とは違うのです。楽しむのが上手い人は状況に左右されず、つまりある意味では感情に左右されないということだと思います。
自分の置かれている状況を冷静に把握したうえで楽しむことができる。
こういう人になりたいものです。
SNSのいいねの価値
今日もSNSを徘徊してます。
SNSには大抵ある「いいね機能」、もちろんされたら嬉しいですけど、
いいねがある、ない、多い、少ない、という現象にどういう意味を汲めばいいんでしょうか。
ポイントはその投稿を見ている人(フォロワー)がどういう人かではないでしょうか。
例えばまず、芸能人のスナップ。
その芸能人のことを好きな人がフォローしています。
したがって、その方の数々の投稿の中、いいねが比較的多い投稿がファンがほしい投稿であり、今後の活動の方針やイメージに直接影響します。どういう投稿がたくさんいいねをもらえるのかマーケティングをすることは、人気商売である芸能人の大事な戦略です。
では次に、フォロワーの少ない人(素人)の写真や作品にされるいいねはどうでしょうか。
有り余る承認欲求からタグをたくさんくっつけてネットの海に放ると少なからずいいねをされることになります。
この場合のいいねというのは、本当にいいねと思った適当な人々が適当に放ったいいねに過ぎません。この不特定多数の適当な人々の半端な数のいいねはその作品の価値を何ら示すことが出来ないのではないでしょうか。
本当にクオリティが高いものであれば(写真を見ただけでわかるようなわかりやすい良さ)世界中の人が反応し、それなりの大きな反響となるはずです。
したがって、素人投稿のいいねには大した意味がないのです。
モチベーションアップ程度のもので、その作品の良さや方向性を保証するものでは全くない、ということです。
それを制作するまでに考えたことや狙い、それを実現、表現できたのかどうか、それを客観的に自分で言えるのかどうか。またそれに自らツッコミを入れるとしたらどうか。こういったことを自分で出来るかどうかが基本になるような気がします。
「それ微妙だね」があればなんか面白そうだなと、なんとなく思います。