わかりやすさ

デザインにおけるわかりやすさとはなにか、どの程度のものなのか考えている。

 

わかりやすいもの、露骨な表現が『良い』とはまったく思わないし、わかりにくいものはわかられない限りは意味不明なだけだ(特に状況に則していないデザインである場合)。

 

何かをデザインするときにわかりやすさを求めるのは当たり前だと思うが、狙うべきは

「ほぼ誰にでも伝わること」ではなく

「魅力的で、かつ説明がついてくるもの」だと思う。

 

この「魅力的」というのが難しく、一瞬で理解はできないけど不思議と魅力的(ただし理解できなければ意味不明のものとして意識にのぼらない)なものもあれば、即座に理解することができる露骨なわかりやすい表現そのものが魅力的に感じるものがある。

 

 

したがって先ほどの

「魅力的で、かつ説明がついてくるもの」とは

 

「一瞬の理解はできぬが魅力的で、かつ説明がついてくるもの」

または

「即座に理解することができて魅力的、もはや説明不要」

というどちらかの意味になる。

 

 

少なくとも最終的に、受容者は意図を理解できなければならない。

「意図の理解」とは制作者が生み出したがっている感情・感覚を認識・体感するということ。

 

 

制作するときに目指すべきは当然「魅力的なもの」だが大事なのは前者の

「一瞬の理解はできぬが魅力的で、かつ説明がついてくるもの」

のほうだ。

これを満たして制作するためには色やかたちが持つ意味や与える印象を知った上でコントロールしなければならない。

 

 

結果としてわかりやすい表現が合っていて魅力的になることは多くあるだろうが、

ただ単純なわかりやすさを狙ってはいけない。

自分が魅力的に思うものをたくさん感じて、なにが心地よいのかをじっくりと考え続けたい。

 

なによりもデザイン技術はたぶんほぼ全ては育てていける技術だから、修行に努めるほかない。

NY1日目

4時45分くらいに起床。6時に家を出て吉祥寺駅から羽田へのリムジンバス乗り場に向かう。20分発だから遅れて一本あとの便になるかもと思ったが大丈夫そうだ。長蛇の列。列が交差点のところで折返した。リムジンバスの通路のシートを引っ張り出して座る。満員。7:20ほどに羽田空港国際線ターミナルに到着。キャセイパシフィック航空はJの窓口。その前に自動発券機で発券する。二人分やるにはそれぞれのパスポートが必要だから今村が来るまでできないと気づき、キャンセルしたらちょうど今村がやってきた。発券完了。J窓口でキャリーバッグを預ける。新人のお姉さんに慣れた中国系のお姉さんが横で教えている。席を通路側通路側にできるというので変更してもらう。今村はトイレへ。イモトのWiFiを受け取れる窓口へ。お姉さんから説明をうける。一日500MBで、使い切ったら日本時間の午前0時に回復する。今村トイレから帰ってくる。そういえば喉が送迎バス乗ってるときから痛い。トイレの近くに自販機があったらしいからトイレついでに水を買った。上の階に行ってつるとんたんを食べることに。上の階全体が取ってつけたみたいな日本感がある世界観。きつねうどん1.5玉を食べる。炊飯器よりでかい器で相変わらずうける。食べ終わってすぐに下の階の出国ロビーへ。龍角散写ルンですを買う。キャセイパシフィック航空のとこで携帯を充電しながら1時間ほど待つ。機内へ。思ったより足元が広い。タッチ式のモニター。いろいろな映画。バンブルビーをみた。すごく面白かった。中国人の若い眼鏡の男の添乗員がお茶を僕の膝に軽くこぼした。すぐに拭いたから大丈夫だったけど、対応がもたもたしてて、お前、大丈夫か?っと思った。あっという間に香港に到着。乗り継ぎのとこからセンサーを通ってまた機内へ。17時間、きつい。さっきより狭い。旧式かな?横の59くらいの女性が全体的にがさつで気分が悪い。窓際のお兄さんは入れ墨がすごい入ってる。夕飯はマッシュルームソースのパスタ。コーヒーが冷めないうちにをみた。松重豊がすごくよかった。クレジットにびけんの名前が。そういえば前に伊藤が映画の作品提供か何かで協力する話があるって言ってた。これか。ボヘミアン・ラプソディもみた。まあまあまあ。恋人だった女の人がかわいかった。鼻が辛かったのはなんとか治ってきた。よかった。JFKついた。1時間くらいで空港をふつうに抜けられた。入国審査のおじさんが片言の日本語話してくれてかわいかった。ヒダリテ、オヤユビ。空港出て今村が一服したらすぐにタクシー乗り場へ。寒いけど死ぬほどではない。黒人の私服のお兄さんのイエローキャブへ。なんかいくつか質問された。5日はやっぱトゥーショートらしい。40分くらいで宿の前の通りついた。似たような家ばっかだからどれか悩んでたらさっきのタクシーのお兄さんが後ろからその家だよそれ!って声かけてくれた。優しい。表の門の内側にある緑のタグの鍵を取る。パスコードを押して建物に入る。パスが必要な機械はくっついてるけど扉自体が老朽化してるから蹴破るとかできそうな感じ。上にあがったらキッチンぽいもの。さらにあがったところに予約しといた部屋。いい感じだー。シャワーの出し方がわからない。わかったぽい。明日の予定を決めた。おやすみ。

逆に気づけたこと

卒業生作品展に出られなかった。

正直出られると思っていた作品で出られなかった。

それを聞いたとき、瞬間的に

 

「あーそっかーここでしっぺ返しきたかー、幸せすぎたもんな」

 

と思った。

それは、初めて作品が自分の手を離れて評価していただいたような気がしていて、

つまり自分が思ってるよりも、「良い」と言っていただけた作品だったからだ。

 

しかしいくつかの事情があり、結果として発表・掲出させていただくことはできなかった。

 

 

プロセスに特に理不尽があるわけでも、実際に掲出された他の人の作品に不満があるわけでもまったくないが、期待していた分、とても悔しく感じた。

大人としての自分は納得していても、自分の中の「子ども」がどうしても悲しんでしかたがなかった。

自分が思ってるよりも評価していただけていると感じていたから自然と「なんだ、やっぱりそんなでもなかったんじゃん」と思うしかなかった。それがまた悲しくなった。

 

だけどあの授業で、評価していただけた、君らしいと言っていただけたことが、僕の1年間の原動力になって、強く自信を持たせてくれたことは間違いなかった。作品が自分の想像をはるかに超えてイイねと言っていただけた経験は貴重な経験になったし、これからの心の糧になった。

 

卒展に出せなかったことの落胆から、1年間のモチベーションに気づき、大切な思考が生まれ、心の糧とすることができた。

出せなかったことがよかったとは言わないが、メンタルを前に進める材料にすることができてよかった。

 

苦しい作品づくりにおける、「心の位置」となにを想像するのかはまた考えたい。

やはり圧倒的な第三者視点、自己との対峙と「自分自身の意識からは逃れられないということ」をまた考え始めてしまった。

 

 

 

雑記

できることしかできないし、できないことはできない。

 

何ができて、何ができないのかは「結果」によって定められる。

 

したがって、できていないという結果を得た後に、

できたかもしれないという概念は発生し得ない。

 

できなかったという結果こそが、それができないことであることを帰納的に定義しているからだ。

 

できるためには、できたという結果を得る他ない。

 

 

頭が悪いってことがわかっている

 

時々、「賢いね」「頭いいね」といったことを言っていただけることがあります。大抵の場合、「要領がいい」という意味で言ってるんだと思います。

ありがたい感想です。

 

だけど僕は自分でわかってます。僕は要領が悪いんです。

僕は要領が悪いからこそ、頭の中をうまく整理しきれないからこそ、目に見える形で要領よくしようとします。

周りの人にはそれが要領よくこなしてるように見えてるときがあるというだけです。

 

高校のときそこそこ勉強を頑張りました(自分で言うのもなんですが)。で、元から頭がいいヤツにはやっぱり敵わないんですね。頭の回転がいいというか、コスパがいいというか、かけた時間に対して理解できる量が多いんです彼らは。

ああ僕は少なくとも勉強についてはもともとの脳みその出来の部分で負けてんだなとはっきり感じたのを覚えています。

 

こういうのをなんというのでしょうか?『不出来の知』とでもいいましょうか。

 

 

他人とか自分に対して賢いって感じるってなんですかね?

より効率よくできる方法があらゆる作業には多分常にあって、

その存在に気づくまでは、現行の方法が最適だと思い込むわけですよね。

で、自分は気づけなかったその存在に気づいた人を「賢い」と思うということかと。

 

つまり、より最適だと思われる方法を、直感的にすばやく認知できることが『賢さ』なんですかね。

 

僕の場合、自分自身が要領よくないとわかっているので、より最適な方法の存在があるんだろうなということがわかります。なので自分はまだ賢くないんだろうなと思うわけです。

 

うーむ、悩ましいです。

 

今日も一生懸命生きてます。